レイパス

レイパスについて

動機

NPO法人レイパス代表理事
片渕 浩平

代表の思い

不登校であることをどう捉えるかについては、様々な意見があると思います。
私は不登校を、「自分の人生を自分で歩み始めた状態」と見ることがあります。
学校という場に無理をして「なじんで」きた結果、社会に出てから自分の人生に悩む人は多いですが(私もそうでした)、そのような人よりも自分の人生にちゃんと向き合っていると思います。
「不登校はかっこいい。他の同じような生き方をしてきただけの何百人といる生徒とは違う」
レイパスのある卒業生が自身の送別会で語った言葉を今でも思い出します。
彼女は中学入学後すぐに不登校になりましたが、レイパスで学習を重ねて入試を突破して第一志望の高校に入学し、やりたかったことを全力でやっています。
どのようなきっかけだったとしても、学校という枠から一歩はみだし、自分の意志で歩み始めた子どもの教育の機会は確保されなければなりません。
必要なのは、「子どもの将来の選択肢を狭めない」こと。そのためには、学校以外の場ででも学習を続けてスキルを積み上げていくしかありません。レイパスでは、一人ひとり違う学習の仕方・ペースを、一人ひとりに合った形でサポートしていきます。

不登校・苦登校について

現在、日本には18万人をこえる不登校の子どもがいるとされています(参考:小学1年~中学3年の人口が約900万人)。大阪府だけでも1万人を超える子どもたちが学校にいけていません。もはや、不登校は誰の身にも起こりうることで、特殊な事象ではないのです。

さらに、近年問題となっているのが、“苦登校”です。学校にいくのは苦しい・嫌だ、でも学校を休みづらく登校している…そんな子どもたちの様子を表す言葉です。日本財団の調査によると、苦登校の数は不登校の3倍にのぼります。つまり、約50万人の子どもが苦登校の状況にあるということです。

未来像

日本の学校教育は、能力の高い・勤勉な労働者を育ててきました。
そして、その人たちが日本の経済・社会を支えています。
日本ではあまり強調されませんが、
世界では、日本の教育は成功例として注目されています。
一方で、学校教育にはその特徴ゆえに3つの課題があると考えました。

  • 自分の頭で
    考えられない

    学校教育では与える教育がメインストリームです。与える教育には、効率的に知識を伝達できるというメリットはありますが、自分の頭で考える習慣が身に付きづらいというデメリットもあります。

  • 学習意欲の低下

    周りと比べる教育の結果、切磋琢磨し向上心を持って勉強できる子どもも多くいます。一方で、一度つまずくと、成績が下がる→やる気低下→勉強しない→わからない→成績が下がる→やる気低下…という悪循環に陥ってしまいます。

  • 少数者・特徴の
    ある子の排除

    そもそも“ヒト”には、異質者を排除して群れの団結力を高める本能があります。この本能が、特に学校や会社といった閉鎖空間で働きやすく、いじめという形で問題となります。

このように、学校教育には課題があります。
そしてそれが、不登校・苦登校の原因の1つになっているとレイパスは捉えています。
つまり、不登校・苦登校の原因は、決して、本人にはありません。
そして、お母さん・お父さんにもありません。
さらに、学校の先生にもないのです。
学校教育が合わなかっただけなのです。

変革

以上の認識から、
レイパスは不登校問題に対して、
2つの変革を起こします。

不登校のイメージ変革

大人でも就職先を選ぶ際に、世間体を気にします。思春期の子どもたちであればなおさらです。不登校となり、フリースクールに通うことに対して劣等感を覚える子どもたちもいます(そして親もそう思ってしまうことが多々あります)。「フリースクールに通えばいよいよ本当の不登校になってしまう」「不登校はみじめで、カッコ悪い」「フリースクールは学校よりもレベルが低い」といった声も聞かれます。子どもたちが、不登校をそのように感じてはなりません。

誰一人取り残さない社会教育

学校の先生は本当に子どもたちのために一生懸命活動されています。しかし、一人ひとりの子どもたちと向き合うには、学校という組織は大きすぎるのです。学校の課題を一身に背負った子どもたちには、別の居場所が必要です。それが、学校教育と両立しうる社会教育の役割です。
「怠けているだけだ」「それくらいみんな我慢している」など、不登校・苦登校の子どもたちに対して、批判的な声もあります。しかし、私たちは不登校・苦登校をそのようには捉えません。永い人類の歴史から見れば、極めて特殊な場である“学校教育”に合わなかっただけだと考えます。

―本来、学校というのは、平均的な青年にとって十分な意味を持っている。もともと教育という公設機関は、少年や青年というものの平均像を -あくまでもそれを- 基準とし、一定の課程を強制することによって彼らの平均的成長を期待しうるものとして、そのような想定のもとに設置され、運営されている。自然、平凡な学生の成長にとっては学校ほど -どのような学校にせよ- 有意義な存在はないかもしれないが、精神と智能の活動の異常に活発すぎる青年 -天才といっていい- にとっては、この平均化された教授内容や教育的雰囲気というものほど、多くの場合、有害なものはないかもしれない―

『世に棲む日日』司馬遼太郎